
戦場で殺人を犯すべきか(リサイクル本から) - K.Murano
2026/07/12 (Sun) 21:58:06
最寄り駅の改札口近くの棚のリサイクル本を手にしたら、そこに掲載された対談の中で矢内原忠雄(1893~1961)が内村鑑三(1861~1930)の「非戦論」の矛盾についてこんなことを言っていた(注1)。
「非戦論者は戦場になぜいくかといえば、国法に従うからだ。国法に従うということは、内村鑑三の信仰からいえば信仰的に要求されることなんだな。国法に従うことが信仰の要求であると同時に、戦争に反対することも信仰上の要求だ。その矛盾をどうするか。その矛盾を解くものは、戦場において死ぬること以外にはない。こういう解決だな。それは論理的な解決になっているかどうか知らんけれども、そういう悲劇的な、戦争という悲劇的な人類の罪を、自分の身に負うて死ぬること以外に処置する道がない、そういうことだろうと思うんだ。
もし良心的反戦論について内村先生に質問すれば、――日露戦争(1904~1905)の当時に良心的反戦論というのが日本にあったかどうか知りませんけれども、それに反対なさらなかったであろうと思う。けれども自分が率先して反戦運動を組織するというような運動家ではなかったと思われる。」
私は内村鑑三の「非戦論」のこの矛盾が気になっていたが、対談とはいえ、それへの言及にこの本で初めて接して、なんだか嬉しかった。
だが、胸のつかえが氷解したわけではない。「汝、殺すなかれ」と言っておいて、同時に「殊に又た総ての罪悪は善行を以てのみ消滅することの出来るものであれば、戦争も多くの非戦主義者の無残なる戦死を以てのみ終に廃止することの出来るものである。」(注2)と言い切ることは、おかしい、と思うからだ。
「無残なる戦死」というが、これでは、「戦死」に至るまでには、相手の敵兵を殺してもかまわない、ということであり、つまりは「殺すなかれ」と「殺せ」が共存した状態だ。
大岡昇平(1909-1988)の『俘虜記』(1948)巻頭の名高い場面、すなわち、一人の米兵を眼前にして遂に「発砲せず」に(気を失って)終わるまでの「私」の行動への分析ぶりを、なぜか、連想する。この主人公の「私」が内村鑑三のいう「無残なる戦死」を肯定するキリスト者であったとしたら、どういう行動をとっただろうか。
今、ウクライナでの戦場でも似たようなドラマが生じているのだろうか。
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(注1)大塚久雄(1907~1996)『生活の貧しさと心の貧しさ』(みすず書房、1978.4.20第1刷、1978.12.5第6刷発行)所収の対談「内村鑑三と現代」(矢内原忠雄・大塚久雄、司会・藤田若雄、1961年実施)から。同書148頁、参照。
(注2)『内村鑑三集』(編集・内田芳明、近代日本思想体系6、筑摩書房、1975.1.20初版第1刷発行)所収の「非戦主義者の戦死」から。同書263-264頁、参照。
Re: 黒岩比佐子と内村鑑三 - K.Murano
2026/07/13 (Mon) 20:34:03
私の母方の祖父が日露戦争(1904-1905)で衛生兵として満洲へ従軍し、帰国する船に一便乗り遅れたために命拾いしたとか、当時の(?)軍歌を母に子供の頃から聞かされたこととか、さらにはロシア語をかじったりした関係もあって、なんとなく、日露戦争には関心を持たざるを得ないできた。
黒岩比佐子女史(1958.5.1-2010.11.17)が逝去した直後だったか、神保町の細道の路上で、某古書店主人A氏と立ち話していたら、A氏が突如、「黒岩比佐子もすぐそこの勉強会に出ていましたよ」と近くのビルの方を指さした。
古本の勉強会か、初期社会主義者の研究会か何だったかは聞きそびれたが、黒岩氏は熱心に参加していたという。
その時その路上で、私は「自分のバイト先の近くに、あの黒岩さんが来ていたのか」と(そのことを知らなかったことに)残念な気がした。
たまたま女史の大著『パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』(講談社、2010年刊行)を読んだばかりだったので、なおさらのことだった。
今、書いておきたいのは、日露戦争と当時の新聞人との関係、戦争がらみの「群衆」の「帝都大騒擾」などを扱った文春新書『日露戦争 勝利のあとの誤算』(2005.10.20第1刷発行)での、内村鑑三の扱い方のことだ。
この本の巻末の「主要参考文献一覧」を見ると、『内村鑑三思想選書1 非戦論篇』(羽田書店、1949年刊)がある。だが、上記文春新書の著作をみると、女史は、日露戦争に対する内村の「非戦論」については、踏み込んだ紹介をしていない。その「非戦論」の矛盾を知っていたはずなのに、黒岩氏は(この著作をみる限りだが)「注」の形にしろ、まるでその点に言及していないのだ。
つまり、あの黒岩女史にしても、他の多くの書き手同様、日露戦争への民間の反応を述べるところでは、内村鑑三のことでは、「万朝報」でその「非戦論」を展開した、だけで済ませている。
黒岩さんが堺利彦、竹下夢二、中里介山、木下尚江、池辺三山らを好むのはわかる気もするが、「歴史と命がけで格闘していたヒストリー・オーサー」(むのたけじ評)の女史にしても、幸徳秋水と内村鑑三は苦手だったのではないか、と、(黒岩ファンの一人として)下手な邪推をする次第である。秋水と鑑三とを敬遠する感覚は私も少しは共有するけれども。
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千野栄一先生の新刊記念のイベントの御案内 - K.Murano
2026/07/08 (Wed) 22:48:22
以下も、樫本真奈美さんの一斉メールから。
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千野栄一『ビールと古本のプラハ』(白水社)刊行記念
阿部賢一先生×大平陽一先生特別対談「プラハと古本と千野先生の記憶」のご案内
日時:2026年7月18日(土) 17時〜
場所:東京堂書店 神田神保町店 6階 東京堂ホール
参加費:1500円(税込み/要予約)
お申し込み:http://www.tokyodo-web.co.jp/blog/?p=27062
昨年8月の刊行以来、千野栄一『プラハの古本屋』(中公文庫)が異例のヒットとなっています。
千野先生はスラヴ学の泰斗として知られ、2002年に亡くなられました。
社会主義時代のチェコでのことを綴った『プラハの古本屋』が没後20年余りを経て、広く読まれる背景には何があるのでしょうか?
さらに、このほど、千野先生が「『プラハの古本屋』に続くもの」と位置づけた『ビールと古本のプラハ』が白水社から刊行されました。
https://www.hakusuisha.co.jp/book/b676611.html
この特別対談では、『プラハの古本屋』『ビールと古本のプラハ』の解説をそれぞれ執筆され、また千野先生の教えを受けた、阿部賢一先生と大平陽一先生にご登壇いただき、千野先生のお人柄から、プラハの今昔、両書のそれぞれの読み方、なぜいま多くの読者に届いているのかまで、縦横に語っていただきます。
エレナ・ブジョラさんの講演会の御案内 - K.Murano
2026/07/08 (Wed) 22:42:44
以下、樫本真奈美さんの一斉メールから貼り付けました。
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第92回 桑野塾のお知らせ
7月25日(土)の桑野塾は、ウクライナ出身のアートマネージャー、エレナ・ブジョラさんにお話を伺います。
東京藝術大学大学院修了後、パソナグループで淡路島のアートフェスティバル「Awaji Art Circus」を立ち上げ、プロデューサーを務めるなど、芸術で地域を創生する活動を展開されています。
お誘い合わせのうえ、ぜひお越しください!
研究会は予約不要です、どなたでも気軽にご参加ください。
日時:7月25日(土)15:00-18:00
場所:早稲田大学戸山キャンパス36号館 581教室
報告者:エレナ・ブジョラ
報告タイトル:『芸術で地方再生~Awaji Art Circusの実践から考える~』
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2011年来日、東京芸大で主にアートマネジメントを学んだあと、2015 年パソナグループに入社、みずから立ち上げに関わった国際パフォーミングアーツ・フェスティバル「Awaji Art C i r c u s 」のプロデューサー・総合ディレクターを務めているエレナ・ブジョラが、芸術による地方創生について報告します(日本語)。
地方が抱える課題を浮き彫りにしながら、「地方創生」という問題を提示、これに向けて行われてきたさまざまな芸術からのアプローチを明らかにし、国内外での芸術によるこの試みの具体例を明らかにします。
そしていま携わっている淡路島で行われている国際パフォーミングアーツ・フェスティバル「Awaji Art Circus」をとりあげ、実際にプロデュース、演出してきた立場から、このイベントを具体的に紹介、 芸術と地方創生の可能性をさぐっていきます。
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懇親会のご参加を希望される方は、事前予約にご協力をお願いします。
懇親会の申し込み〆切は7月22日(水)です。
懇親会お申込:masakatsuishii@gmail.com(石井将勝)
桑野塾世話人 樫本真奈美
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ありがとうございました! - 樫本真奈美
2026/07/06 (Mon) 22:16:22
2日はありがとうございました!!!
関西人の私としては、憧れの液体を初めて口にできた記念すべき日です!!明治・大正・昭和の文豪たちに愛された名酒「電気ブラン」をいただけて幸せでした。
ホッピー街も楽しかったです。
皆さんの貴重なお話をお伺いする時間が足りませんでした。また、機会ありましたら誘っていただけたら幸いです。
すっかりご馳走になり、本当にありがとうございました!!!
Re: お疲れさまでした - 吉澤稔雄
2026/07/06 (Mon) 23:10:38
樫本さん、3軒めまでは想定外でしたよ。私は少し飲み過ぎたようで、帰路の電車の中で急に酔いがまわってきて、気がつけば降車駅を乗り過ごし、次の駅まで行って引き返してきました。
翌日、美水さんからメールをいただきました。それによると彼は解散後にもう1軒ひとりで飲みに行ったそうで、私は唖然としました。さすがです、美水さん。
Re: ありがとうございました! - 川上宏
2026/07/07 (Tue) 00:26:30
樫本様、お忙しい中お付き合いいただきあり
がとうございました。おかげで楽しく愉快な
ひとときをご一緒することができました。
♪デンキブラン 一杯天国 二杯で地獄
三杯飲んだらあ~の世行き♪
あがた森魚"赤色エレジー"から
Ps. facebook [酔いどれ日記in浅草]拝読いたしました。
デンキブランにまつわる文学者たち、永井荷風、太宰治、萩原
朔太郎、林芙美子、エトセトラ········。
赤羽での再会を、今から楽しみにしております。
Re: ありがとうございました! - K.Murano
2026/07/07 (Tue) 21:51:19
上記川上さんの書き込みをみて、私も、facebook [酔いどれ日記in浅草]を拝読しました。樫本さん、ありがとうございました。
それで思い出したのは、岡本かの子(1889-1939)の名セリフです。
ちくま文庫「岡本かの子全集」のエッセイの巻のどこかだったか、かの子は「江戸っ子の魂(心の底)には隅田川が流れている。」と言い切っています。
たしかに、かの子の「河明り」(1938)の前半では墨田川がもろに流れているのですが、後半はいきなりシンガポールに飛んでしまいます。大乗仏教的な説明が付されますが、こうした、かの子姫のイマジネーションの飛翔が(私には)面白いです。
往年の神谷バーにつどった文人たちの中に岡本かの子の姿はなかったかもしれませんが、以上、念のため、書き込ませていただきました。
平均寿命 - 川上宏
2026/06/27 (Sat) 11:08:16
Re: 平均寿命(AIから) - K.Murano
2026/06/28 (Sun) 21:03:30
グーグルで「日本の平均寿命の変化」と入れたら、AIが以下のように答えてきました。ご参考までに、貼り付けておきます。
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戦前の日本人の平均寿命は45歳前後でした(男性は約42〜44歳、女性は約43〜46歳)。乳幼児の死亡率が非常に高かったことなどが全体を引き下げており、太平洋戦争の末期(1945年)には、男性が23.9歳、女性が37.5歳にまで低下しました。
戦前から戦後にかけての平均寿命の具体的な推移は以下の通りです。
■戦前の平均寿命の推移(生命表に基づく推定):
▲大正初期(1910年代):男性 約42歳 / 女性 約46歳
▲大正〜昭和初期(1920〜1930年代):男性 約44歳 / 女性 約46歳
▲太平洋戦争末期(1945年):男性 約24歳 / 女性 約38歳
※大正14年(1925年)に公式な生命表が初めて発表された際の平均寿命は、男女合わせて約47歳でした。
■戦後の急激な伸び:
終戦直後の1947年に行われた第8回生命表において、初めて男女ともに50歳を超えました(男性 50.06歳、女性 53.96歳)。
この時期を境に、公衆衛生の改善や医療(抗生物質など)の普及により、乳幼児死亡率が劇的に低下したことで平均寿命は急上昇しました。
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Re: 平均寿命(ロシア) - K.Murano
2026/06/28 (Sun) 22:21:47
ロシア語で「平均寿命の歴史」とグーグルに放り込むとAI(ロシア語ではИИイーイー)が以下、答えてきました。要点だけ、メモしておきます。
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■帝政ロシア時代:
▲1897年:男性 約29歳 / 女性 約31歳
(「幼時の死亡率の高さと、医療の未発達による」)
■ソ連時代:
▲1959年頃:男性 63歳 / 女性 約71歳
▲1960~1980年代:67~70歳
■ポストソ連時代:
▲1994年頃:64歳 (内、男性:57~58歳)
▲2019年:73歳
Re: 平均寿命 - 川上宏
2026/06/29 (Mon) 09:00:13
詳細な資料ありがとうございました。
当時のデータに基づけば、我々はおまけの人生を、飲んだくれて
生きながらえているということでしょうか。
粕谷大人、どう思われますか?
長編小説『湾』 - 粕谷隆夫
2026/06/11 (Thu) 08:02:33
早速本屋に飛び込み購入しました。
幸福な風景と美しい出来事しか書かない。
それはどんな小説世界をつくるだろうか。
Re: 「AIの概要」から - K.Murano
2026/06/15 (Mon) 20:47:39
揚げ足取りの気持ちはさらさら有りませんが、「幸福な風景と美しい出来事しか書かない。」(上記)と断言されると、小説にそれが可能なのか、と(私などは)思ってしまいます。
以下は、AI(Artificial Intelligence)の概要です。グーグルに「宮本輝、湾」と放り込んだら、出てきました。
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宮本輝の『湾』は、79歳の著者が「美しい記憶と幸福なことだけを描く」という思いで書き上げた円熟の長篇小説です。少年時代の自然あふれる舞鶴での日々から老境に至るまでの64年分が、穏やかで温かい筆致で紡がれています。
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ということで、厳密には、「幸福な風景と美しい出来事しか書かない」<という思いで>、でしょう。
詩作だったら許されるのかもしれませんが、小説だと、そのなかに「幸福な風景」と「美しい出来事」しかない、としたら、果たして読まれるものでしょうか。「天国」とか「極楽浄土」しか描かれていない小説なんて、存在するのでしょうか。
Re: 「AIは嘘をつく」(多和田葉子) - K.Murano
2026/06/17 (Wed) 13:03:09
もう一か月ほど前のこと、東京は国立(くにたち)市内で200名強の聴衆の一人として多和田葉子の話を聞く機会があった(注1)。
壇上に二名の日本文学研究家と多和田氏が座っての問答形式。そのあと会場の人達との質疑応答があった。
印象的だったのは、多和田氏いわく、AIに対して意地の悪い質問をしたら、この世に存在するはずのない資料をでっちあげて答えてきた、という話と、「古今和歌集」のドイツ語訳に時間をかけたが「伝統、なんてない、それは、創るものだ」と断言していたことだ。
残念だったのは、日頃ドイツに在住しているわりには、まるでドイツ在住のウクライナ人、ロシア人の話が出なかったことである。(多和田氏は日本の大学では早大露文出身なのだが)
翌日、同じく早大露文出身の高柳聡子氏の講演が隣接する立川市内であった(注2)。氏によると、今やベルリンのロシア人社会は(他の国の都市と比べ)世界最大ではないか、ソ連時代はフランスが目立ったが、今はドイツに亡命ロシア人が集ってきている、とのこと。
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(注1)「多和田葉子さんと世界の今を考える」、人文学の学校KUNILABO創立10周年記念イベント、2026.5.15(金)、国立市の市民芸術ホール。
(注2)シビル市民講座74期「権力とたたかうロシアの女たち」、講師:高柳聡子、第1回「女たちの反体制運動」2026.5.16(土)、立川市柴中会公会堂。第2回「現代ロシアの『小さな人々』」2026.6.20(土)、場所:同上。
舟川はるひ氏の講演会の御案内(郡司成忠の生涯) - K.Murano
2026/06/07 (Sun) 22:12:07
以下、桑野塾の世話人の一人である樫本真奈美氏の一斉メールから。
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第91回 桑野塾のお知らせ
6月27日(土)の桑野塾は、日露関係史研究者の舟川はるひさんにご登壇いただきます。
舟川はるひさんは、曾祖父で千島の開拓に従事した郡司成忠の生涯をまとめた『千島開拓の先覚者―評伝 郡司成忠』(ゆまに書房、2026年)を3月に出版されました。
さらに今回の研究会では、舟川さんのお爺様で外交官として活躍された郡司智麿氏が、フィンランド駐在中に画家のイリヤ・レーピン(ロシア革命後で事実上「亡命ロシア人」となっていた)と交流していたことについてもお話いただけます。当時の貴重なスケッチやご家族の肖像画にまつわるお話など、晩年のレーピンの様子の一端が伺える貴重な機会となります。
ぜひ、お越しください!
研究会は予約不要です、どなたでも気軽にご参加ください。
また、懇親会のご参加を希望される方は、事前予約にご協力をお願いします。
懇親会の申し込み〆切は6月24日(水)です。
懇親会お申込:masakatsuishii@gmail.com(石井将勝)
■日時:6月27日(土)15:00-18:00
■場所:早稲田大学戸山キャンパス36号館 581教室
■報告者:舟川はるひ(日露関係史研究者)
■報告タイトル:「明治時代に千島開拓を試みた郡司成忠の波乱万丈の人生を語る」
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千島の開拓に従事した海軍軍人、郡司成忠(1860~1924年)は、幸田露伴の実兄として知られるが、彼の生涯についてはほとんど知られていないだろう。
郡司は近世末期の坊主衆、幸田家に生れ、幼くして郡司家の養子となり、海軍兵学校を経て海軍将校となった。その際、1875年の樺太千島交換条約締結によって手にした千島が無人島のまま放置され、外国人が勝手に漁業や猟業に従事するような無法地帯となっているのを知ると、郡司は自ら海軍を退き千島拓殖団体、報效(ほうこう)義会(ぎかい)を組織して、1893年に有志とともに占守(しゅむしゅ)島に渡航した。途中、日清戦争の勃発により一時的に島を去らざるを得なくなったものの、政府や民衆からの信頼を得て郡司は占守島の開拓に従事した。
日露戦争勃発により千島の拓殖事業は道半ばで終わったが、郡司は報效義会の根拠地を千島から東京に移し、カムチャツカ半島沿岸における漁業や、オホーツク、ベーリング海の海獣猟業を中心に報效義会の立て直しを図った。さらに中国にも進出し、北から南まで縦横無地に奔走したのである。しかし、1919年に報效義会は経営破綻に陥り、事実上解散してしまった。
それでも郡司は日本の国防を憂い続け、1918年から1920年にかけて外務省の嘱託として内戦期のシベリアで諜報活動にも従事した。任務を終えて帰国後病を患い、1924年に64歳で死去した。まさに国の護りを模索し続けた志士であった。
従来、郡司に関する研究は、彼の日露戦争までの事績に終始しており、日露戦争後については見てこなかった。
報告者は、郡司の子孫として郡司家に残されていた資料をもとに『千島開拓の先覚者―評伝 郡司成忠』にまとめた。